秘密の恋人

 砂浜って思ったより黒いんだ、と言ったら、先生は微妙な顔であたしをみた。

「テレビで見るのって、青い海、白い砂浜、みたいな感じじゃん」
「白いのは南国だけだよ。来たことねえの? こんなに近いのに」
「いや、来たことはあるけど」

 黒ずんだ砂地に足を下ろすと、思ったより不安定で腰が引けた。転びそうなあたしを、高いところに座ったまま先生が笑う。
 こんなに近く、というほど身近に感じたことはないけど、あたしの家から最寄りの海水浴場までは車で一時間もかからない。夏休みなんかに家族でお出かけする場所としては都合が良いんだと思う。

「ま、泳いだことはないかな」
「なんで」
「泳げないからね、あたし」

 そう言って先生に背を向けると、お前運動得意なのにな、とのんきな声が返ってくる。
 先生はあまりにもいつも通りで、緊張感とかないのかな、とあたしは思う。こうやってデートしてる事がバレたら危ないのは先生の方なのに、いつもあたしだけがドキドキしている。
 一歩足を踏み出すと、砂の中につま先が沈んた。グレーのスニーカーは濡れて色が変わっていて、砂浜は濡れているんだな、とぼんやり思う。
 うんと小さい頃には、何度か海に来たことがあった。小さい体にはとても波の中を泳ぐ力なんてなくて、あたしはピンク色の浮き輪に乗せられて、ゆらゆら海を漂っていた。多分、楽しかった。お父さんも、お母さんも、珍しく笑っていたから。

「先生は? 海ってよく来るの?」
「夏は人が多いから来ない」
「冬は?」
「寒いから嫌だ」
「文句が多いなぁ」

 寒いから、と言ったとおり、先生はダウンコートとストールに埋もれて車の前に座ったまま、砂浜に降りようともしない。ちょっと人相が悪いから、明るい黄色のダウンコートも、あたしが貸した赤いストールも、全然似合ってなくてちょっと笑えた。
 冬の海は寒いけど、人目を忍ぶデートにはちょうど良くて、あたしは好きだった。

「降りてこないの?」
「靴濡れるからやだ」
「えー、何しに来たの? 先生」
「冬の海っつーのは眺めるもんなんだよ」
「ふうん」

 確かに、恋愛映画では、大体並んで海を眺めていた気がする。いや、元気なカップルだと真冬でも水を掛け合ったりしていたけど、あたしも先生も、そういう健全な感じとはほど遠い。

「ねえ、写真撮ってよ」

 あたしが言うと、先生は少し眉をひそめてあたしを見て、それから、いいよと一言だけ言う。
 よたよたしながら進むあたしと違って、先生はコンクリートの上を進むみたいにまっすぐにあたしに向かってくる。海に慣れているのかも知れないな、とあたしは思う。
 先生は泳げるんだろうか。全然想像がつかなくて、あたしは笑いながらスマホを差し出す。
 あたしが知っているのは、着崩したスーツに白衣を引っかけて、屋上の隅でこっそり煙草を吸っている先生だけだ。あたしのサボりを見逃す代わりに喫煙を黙っていてくれという、不良教師。
 あたしは先生の事を何にも知らない。
 先生は、慣れた手つきであたしのスマホを構えて、そのまま二歩、三歩下がる。

「この辺で良いの?」
「良いよ」

 合図もなくフラッシュが光る。あたしは眩しさに目を細めて先生を見る。シャッターを下ろすようにまばたきして、先生の方へ歩き出す。

「目半開きだけど良いの?」

 差し出された画面には、眩しそうに目を細めたあたしが映っている。

「いいよ、これで」

 あたしは宝物のようにそれを受け取って、撮ったばかりの写真を「デート」のフォルダに入れる。
 タイトルを日付にして、位置情報が保存されていることを確認して、画面を落とす。

「写真、送って」
「……駄目だよ」

 先生は不満げな顔であたしの頭を撫でて、それから自分のスマホであたしを撮った。

「ちょっと」
「消すから」

 額を寄せて、あたしに画面を見せながら、先生は撮ったばかりのあたしを消す。くすぐったそうな、にやけた顔の前に確認メッセージが現れて、ボタンを押すと先生の家の猫の写真に切り替わった。

「消したから」

 先生の指先が、あたしの髪を撫でる。
 あたしたちが二人でここにいることは、きっと正しくないことだから、記念写真は残らない。
 さびしいね、とあたしが言うと、先生は何も言わずにあたしの頬にくちづけた。さびしいね、先生。どうしてあんたはあたしの先生なんだろうね。
 いつか別れる時、あたしはきっと、あのフォルダを消すだろう。スマホだって変えるかも知れない。
 後には何にも残らない。
 それでも先生に似合わない、ちかちかした黄色のダウンコートを、あたしはきっと、ずっと覚えている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Scroll to top