ふたりの間にファンファーレ

「も、もう一回!」

 そう言ってわたしが跳ね起きると、もとくんは呆れた声でえーと言った。銀縁眼鏡のつるをいじって、めんどくさそうに顔をしかめる。

「いい加減あきらめたら?」
「あきらめません。もとくんが付き合ってくれるって言ったんだから! はい! もう一回!」
「僕は一回だけって言ったと思うけどな」

 そう言って、しかめ面のままペンを構える。茶色いローブの裾が、床の近くではためく。
 一回だけなんて言っているけど、これで今日十回目だ。もとくんに甘えきっていることを自覚しながら、生成りの紙に顔を寄せる。ツンとした、インクの匂いがする。

「ねえ、ちょっと。危ない」
「いいから!」
「いや、でもさあ……」

 もとくんが、左手でわたしのほっぺたを拭った。べったりとブルーブラックのインクがもとくんの白い手について、さっき吹っ飛んだときか、それともその前かな、とわたしは思う。

「僕だってまだ修行中なんだから、途中で何か起きるかもしれないんだよ?」
「ちゃんと避けるし、大丈夫だから!」
「絶対嘘」
「それにもとくんは失敗しないから!」

 もとくんはため息をついて、ガラスのペン先をインク壺の中に漬けた。
 いくよ。
 さっきまでのめんどくさそうな空気を消して、真剣な顔で、ペン先を紙の上に滑らせる。直線が三本。その間に蔦模様みたいなのたくった線が流れ、丸がいくつか。曲線が五本。また直線。隙間を埋めるように、古代の文字が躍る。
 魔法陣だ。しかも、結構難しい。
 もとくんは紙にキスをするくらいに近づいて、手のひらくらいの紙を埋めていく。時折インク壺にペンを戻すときだって、顔も上げない。線の太さは均一で、どんな魔法を使っているのだろうとわたしは思う。嘘。魔法なんかじゃない。これは技術だ。魔法では補えないもの。
 そうやって、線を引いて、線を引いて、線を引いて、空白の方が少なくなってきたところで、もとくんは急に顔を上げた。

「えっ」

 わたしはつられて顔を上げて、さっきよりも——魔法で吹っ飛んだ時よりも——よっぽど派手にひっくり返る。

「え、ねえ、ちょっと。大丈夫?」

 机の端から顔を出して、もとくんが心配そうな顔をする。まだ、発動してないはずなんだけど。そう言って、書きかけの魔法陣を光にかざす。そうだけど、そうじゃなくて。勝手に転んだけど、だって、だってさ。もとくんの手元を見るために、わたしだって紙をのぞき込んでいたのだ。
 顔を上げたら、キスするくらいに近づいちゃうでしょうが!
 しばらく距離を取ってもとくんをにらみつけていたけれど、もとくんは不思議そうに首を傾げるだけだ。

「ねえ、やらないの?」
「……やるよ」

 もとくんは、何事もなかったみたいな顔でわたしにペンを差し出す。
 馬鹿馬鹿しくなってペンを取った。知ってた。もとくんはそういう奴だ。疎いっていうか、なんていうか。
 ペンをインク壺に漬け直して、紙をにらみつける。大丈夫。線を引く場所は頭に入っているし、後は均一に、線を引くだけ。
 わたしはもとくんの魔法陣の、仕上げだけをやらせてもらおうとしている。
 紙の上にペン先が降りる。もとくんの書いた陣を囲むように円を書く。ゆっくりと引いた線は、もとくんのものより少し太い。だけど、きっと大丈夫。もとくんは、二歩分だけ離れたところで真剣にわたしの手元を見ている。ペンを引く。円が閉じる。
 ふぁーん!
 気の抜けた音が鳴った。それを追うようにトランペット。門出のファンファーレ。魔法陣の周りで空気がはじけて、桜色の紙吹雪が舞う。花火のような光の輪唱。太鼓の拍動。妖精たちの祝福。
 わたしは呆然とそれを見て、もとくんを見て、もう一度、魔法陣を見た。

「できたぁ!」

 青い光を放つ魔法陣が、じりじりと色を変えていく。発動時間は五分。自習室の片隅が、急にこんなにも華やかだ。
「ありがとう! もとくん!」
 思わずもとくんに飛びつくと、えっ、と声を上げてもとくんがよろける。でも、倒れなくてちょっと意外だった。ひょろひょろなのに。

「お、おい。ちょっと。離れてくれ」
「えーでも、だって、初めてうまくいったんだよ!」
「お前が感動してるのは分かったから。良いから。おい。いい加減にしろ」

 もとくんがわたしを引き剥がそうとしているけど無視だ、無視。だってこんなに嬉しいのに。
 今度の壮行会で、わたしは劇に出る。三年生が部を離れて初めての舞台。とびきり陽気な魔法使いの役。
 魔法陣を扱うのは難しいから、大抵の場合は魔法陣が組み込まれた仕掛けでどうにかするけれど、このファンファーレだけはどうしても自分の手で鳴らしたい。だって、これまでたくさんお世話になった人たちのお祝いなのだ。できることは全部、したい。
 背中で鳴り響くファンファーレ。口笛。拍手の音。

 拍手?

 はっともとくんから離れて振り返ると、ドアの外には演劇部の面々がずらりと揃っていた。

「あれぇ? もう良いの?」

 のんきな声で、まちちゃんが言う。

「い、いつから、見てた?」
「ファンファーレなり始めてすぐかなぁ」
「ああ、それでもとくん……」
「うふふ、やっと成功したみたいだから、おめでとうを言おうと思って来たんだけどなぁ!」

 にっこり笑った主演女優は、紙吹雪をつかんでわたしの頭にばさりとかけた。

「練習、するぞほら」

 目が怖い。
 紙吹雪を避けながら、まちちゃんに続いて教室を出る。そうなんだよなぁ、ファンファーレが鳴ったって、劇がしょぼくちゃ意味がない。演技は、技術だ。魔法ではやっぱり補えないもの。

「あ、もとくん、ごめん、片付けは後で……」
「良いよ、やっとく」
「えっと、今日はありがとう。すごく助かった」
「……いいよ。僕も練習になったし」

 もとくんは、壁に立てかけてあったほうきを手にわたしから顔をそらす。長めの髪から覗く耳が真っ赤だった。

「ねえ、もとくん」
「ほら、早く行きなよ。演技の練習するんでしょ」

 銀縁眼鏡の向こうからわたしを見て、もとくんが手を振る。インクまみれの、ペンだこが目立つ手。修行を重ねた魔法使いの手だ。
 だからもとくんは、絶対失敗しない。

「魔法の練習ならまた付き合ってあげるから」

 もとくんが柔らかく笑う。
 ふたりの間にファンファーレ。紙吹雪が舞って、妖精の祝福。
 何か始まりそうな教室の片隅、わたしだって絶対失敗できないから、まちちゃんの待つ廊下の向こうへ走り出した。

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