小雨降る日の夕暮れはいつも冷たい

 出窓から店内をうかがうと、京香さんと目が合った。何をしようとしていたのか、コーヒーポットを高く掲げていた京香さんは、恥ずかしそうに少し笑って、店のドアを開く。高く澄んだドアベルの音。喫茶通り道は今日も、こっくりとしたコーヒーの匂いに包まれている。

「まだ雨降ってんだ」
「気付かなかったんですか?」
「いやあ、ランチタイム過ぎたらお客さんがぱったりでさ。寝ちゃってた」

 うわあ、だめ店主。そう言った私の声は、どこかふわふわとしている。
 朝方から降り続いた雨は夕方になってもまだ上がる気配がなく、今日はこのまま夜を迎えそうだ。この辺りの夏には珍しい天気で、少しだけ気が滅入る。
 雨が降るなら派手に降ってくれた方がよほど良い。人の声が聞こえなくなって静かだから。
 案内されるでもなくカウンターに座ると、お冷やと一緒にタオルが差し出される。

「靴下、濡れちゃってない?」

 首を傾げた京香さんの頬で、ふわふわした黒いショートヘアが揺れた。京香さんは今日もかっこいい。タオルを受け取りながら、うふふと私が笑うと、京香さんは首を傾げたままへらへら笑った。

「ブレンドでいい?」
「カフェラテがいい」
「なんだよー、いい加減ブレンドも飲んでってくれよ。うちの売りなんだから」

 京香さんはぼやきながら、手にしていたコーヒーポットを端に置いて、代わりに銀色のエスプレッソマシンに手を伸ばす。荒れた指先が豆をセットするのを見ながら、私はお冷やを一口。
 かっこいい店員さんがいるから。まじやばいから。恋する乙女のような顔をした友達に連れられてきたのが最初だった。古めかしい外観にまず引いて、ガラスも嵌まってないドアに書かれた名前にまた引いた。喫茶通り道。絶妙にダサい名前が、すごくダサい金色のポップ体で刻まれている。良くスーパーのポップに使われているやつ。ダサい。
 でも、京香さんは本当にすごくかっこよかった。いや女かいとは思ったけど、気にならないくらいかっこいい。
 それからも友達に連れられて何度かここに来て、そのうち一人でも通うようになった。友達はバイトを増やしたとかで来なくなってしまったけど、私はバイトのない毎週金曜日、決まってここに座っている。

「はい、どうぞ」

 水色のカップの中で、かわいらしいハムスターがこっちを見ている。かわいい。思わず呟くと、京香さんがあははと笑う。
 あんなにかっこいい京香さんの作るラテアートはすごくかわいい。先週は確かくまで、その前はうさぎたった。あまりにもかわいい。膝の上でスマホを握りしめながらハムスターを凝視していると、京香さんは複雑そうな顔で写真はなしだからなと声をかけてくる。

「分かってるから見てるんですよ!」
「いやでもさあ、そんなに親の敵のように……」
「実際大体敵ですよ」

 こんなにかわいいのに写真禁止だなんて。仕方ないって分かっていても、カフェラテを見るといつも恨めしく思う。今日なんて、私以外にお客さんもいないのに。
 インスタはやってないけど、私の写真フォルダには、私の思うかわいいすてきかっこいいがずらりと並んでいる。それなのに、カフェラテはおろか、京香さんすらその中にはいないのだ。悔しい。

「そういえば、そろそろ夏休みじゃないの?」
「夏休みですよ。っていうか、もう夏休みです」
「そうなの?」

 喫茶通り道は、高校から駅までの通り道にあることが由来で名付けられたそうで、店の前は通学路になっている。授業が終わった後は行列かというくらい学生が通っていくはずなのに、ここにいて気付かない京香さんは大分ぼんやりしていると思う。

「え、だって美羽ちゃん制服じゃん」
「これは、当番で学校に行ったからです」
「当番?」
「中学生の学校見学の手伝いなんです。何人かだけ出なきゃいけなくて」

 断れない性格の私を、指名してきたのは先生だった。
 お願いできない? そう尋ねてきた先生に、私は曖昧に、困ったように笑って、なぜ嫌か言葉にもできないまま、気がついたら引き受けさせられていた。

「私だけ名指しで手伝わせるなんておかしい、と今は思うんですけど」
「今は?」
「私、そんなのおかしい思っても、うまく説明できないんですよ。で、気付いたら引き受けてるんです」

 心は、私のずっと先を行く。
 かっこいい。かわいい。おかしい。いやだ。すてきだ。単純な感情は私のなかに矢のように飛び込んで、音も立てずに通り過ぎていく。今更と言う頃になって気付くのだ。私が嫌だと思ったのは、先生に平等に扱われなかったからだ、と。
 説明できない感情は、他人にとってないのと同じだ。

「だから、まあ、ちゃんと断れない私も悪いんですよね」

 みんな、きっとできているのだ。例えばここへ私を連れてきた蛍なら、声をかけられた時点で不平等に扱われていることに気付いて猛抗議をしているはずだ。
 カフェラテに口をつける。あんなにかわいかったハムスターは引き延ばされて、なんだかモンスターじみている。

「よくわかんないけどさ、別に、悪くはないんじゃないの。そんなん私もできないし」

 まあ、私はすぐサボるから頼まれ事なんてそうそうないけどねー。
 へらへらと笑ってみせる顔は、やっぱりかっこいい。
 薄い爪の先が、分厚いマグカップの取っ手をなぞる。私のついでに入れたらしいカフェラテには、何のアートも載っていなかった。無愛想な白いマグカップに、京香さんが口づける。
 リン、とドアベルが鳴った。

「あれ? 美羽じゃん。何してんの?」

 蛍だった。
 バイト先から直接来たのだろう。黒いズボンに白いシャツだけの服装は、彼女にしてはずいぶん地味だ。

「何って……話聞いてもらってる」
「そうなんだ。あ。ねえねえ京香さーん、私もコーヒー飲みたい!」
「はいはい。ブレンドで良い?」
「ラテにしてハートくれても良いんだよ」
「はいはい。ブレンドね」

 ご機嫌に京香さんに絡む姿は、一緒に店に通っていた頃と変わらない。蛍は私の隣の椅子に座ると、一つに束ねていた髪を解いた。湿気やばーと言いながら、髪にバサバサと空気を送る。

「蛍もまだ通ってたんだ」
「あー。ねー」

 蛍は曖昧に言葉を濁して、京香さんを見る。
 黒いTシャツに黒いジーパン。カフェエプロンまで全部黒ずくめなのに、かっこいいのはスタイルが良いから。女の人にしては筋肉質な体をしているのに、肩周りは薄くてアンバランスだった。
 蛍は、相変わらず京香さんを見ている。

「蛍ってさあ、京香さん好きだよねぇ。恋する乙女かよって顔してるよ」
「当ったり前じゃん! かっこいいもん京香さん! その割にかわいいもの好きなのかわいくない?」
「分かる。ちなみに今日のラテはハムスターでした」
「はあー、何それ。めっちゃかわいい。見たすぎる。ねえ京香さん、今からラテにならない?」
「なりません。なったとしても蛍の分はハムスターにはなりません」

 京香さんが、蛍の前に白いカップを置く。無愛想な、白いマグカップ。京香さんと同じものだ。蛍のカップに視線を落とす、その目元がかすかに赤い。
 どうしたの? 蛍が首を傾げると、京香さんの視線がゆるゆると蛍を捕らえた。

「蛍の分はハートなんでしょ」
「え」

 蛍はしばらくの間、呆然と固まっていたが、やがて、え、え、と不審者っぽくくちびるを震わせて、えーっ!!と叫んだ。今日お客さんがいなくて本当に良かった。
 そのままカウンター越しにがしっと京香さんの肩をつかむ。

「声がでかい」
「えっ、えっ、だって、かわいい! 京香さんかわいいー。結婚しよー」
「……それは、まだ考えないって」
「はあー? かわいすぎじゃない?」

 蛍はぐるんと私の方を見て、かわいすぎじゃない? ともう一度言うので、曖昧に頷く。
私の存在が忘れられていなかったことに安心するべきか、私の前だって分かってやってることに頭を抱えるべきか。蛍の世界は、良くも悪くも自分中心に回っている。
 そうか、蛍は、夜京香さんに会いに来るために、通うのをやめたのだ。
 残っていたカフェラテを飲み干して、私はカウンターチェアから飛び降りる。

「えっ、美羽もう帰るの?」
「お邪魔なんじゃないの?」

 じろりとにらみつけると、蛍はえへへと恥ずかしそうに笑う。美羽に肩をつかまれたまま、京香さんも恥ずかしそうで、どこか嬉しそうだった。そうか、そういうことなのか。

「それじゃあ京香さん。また来ますから今度は仕事中にいちゃつかないでくださいね」
「い……」
「あ、そういえば蛍。みんなで夏祭り行く話、後で連絡するね」
「あー、そのことなんだけど……」
「……行かないって言っとけばいい?」
「ありがとー。プールは絶対行くから! そっちは私から連絡するね」

 蛍が全力で手を振るので、ひらりと手を振り替えして店を出る。
 ガラスも嵌まっていないドアを出て背を向けたら、私の顔は店の中には見えないはずだ。
 まあ、見ないのかも、しれないけど。
 雨はあいかわらずしとしとと降り続いている。どうせなら、今ここでゲリラ戦を繰り広げていてほしかった。雨の音は、ささめきのようにささやかだ。
 傘を差して歩き出す。雫がパタパタとレインシューズに落ちる。
 心はいつでも、私のずっと先を行く。
 ああ、写真を撮りたかったと私は思う。ハムスターを差し出してはにかむ京香さんは、確かにすごく、かわいかったから。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Scroll to top