恋を知らない悪魔になりたい

ダブルベッドと間接照明。エアコンがごうごうと冷気を吐き出す午前零時、熱帯夜。

「もう、終わりにしたい」

ベッドに寝転んで、天井を見つめたまま私が言うと、ひさしは眉をひそめて私の顔をのぞき込んだ。

「……何を?」
「会うの。もうやめたい」
「なんで、そんな、突然」
「ずっと考えてたよ。でも、やる前に言ったら、困ると思って」

戸惑うひさしの顔が見えないように目を閉じる。やっぱり、好きだなぁ。一緒にいられればそれで良かったはずなのに、いつから変わってしまったんだろう。

「ひさしは、インキュバスだから」

愛されないことに、私はもう耐えられない。
ああ。ひさしは真顔でそう言って、ベッドを降りた。さすがに少しくらい引き留められるかと思っていたから、拍子抜けしてしまう。馬鹿みたいだ、私。
ひさしはインキュバスだ。比喩じゃなくて本当に。
私の精気を吸い取って、ひさしは今日も生きている。小食だから私の健康に影響があるほど吸い取るようなことはしないけど、そこにきっと愛はない。
愛したら、愛されたくなってしまった。ひさしがインキュバスだってこと、最初から知っていたのにね。
ベッドの端に引っかかったワンピースを頭からかぶって、ベッドを飛び降りる。鞄は、入り口の近くに投げ出してあった。つかんで、振り返る。
狭いワンルームに、押し込むように並んだベッドとローテーブル。ビジネスホテルみたいに素っ気ない、ひさしの家。せめて泣かずに帰ろうと思っていたのに、もうここに来ることはないのだと思うと、一粒涙がこぼれる。
ひさしは、私のことなんて見もせずにうつむいて――

「えっ泣いてる」

思わず大きな声が出て、ベッドの脇に座り込んだひさしが、びくっと肩を震わせた。
がばっと顔を上げて、口を開いて、言葉は嗚咽になって出てこない。号泣だった。綺麗な顔が跡形もなくなるくらいの大号泣。正直いい大人がそんな顔をしているところは初めて見た。

「えっ、えっ、ちょっと待って、何でそんなに泣いてるわけ?」
「だ、だってふ、振られ……ぉえっ…………」
「待って待ってちょっと待って落ち着いて。吐かないで」

鞄を投げ出して駆け寄ると、がっちりと左腕を掴まれた。あざになりそう。ただ、こんなに泣いている人にそれを言うのは憚られて、空いている手でひさしの肩をさする。終わりにしたいと言ってから今までわずか三分足らず。あまりにスタートダッシュ決めすぎてて怖い。

「ほ、ほら、落ち着こ。ね。帰らないから」
「かえらない……?」
「帰らない帰らない。なんなら今日泊まってくし」
「とまっ……だっ、わっ、わがれ、……うえぇ」

嗚咽なんだか嘔吐いているんだか分からない声を出して、ひさしは私の腕にすがりつく。何言ってるのか全然分からない。
泣いて引き留めようって作戦かと思ったけれど、武器にするには涙に振り回され過ぎている気がしてならない。百年の恋も冷めそうなくらい、身も世もない大号泣だ。もしやインキュバスには振られると死んでしまうような呪いでもかかっているんじゃないだろうな。それはさすがに困る。
しばらくの間、黙ってひさしの泣き声を聞いていた。時折うわごとのように何か言うが、全く聞き取れない。ところでこいつ、私の服で顔拭いてないか?

「落ち着いた?」
「おち、おちつ……うぇっ……おちついた……」
「うんうん、もうちょっと落ち着こうね」

せめてその綺麗な顔で嘔吐くのやめようね。
頭を撫でると、素直に私の手にすり寄ってくる。人を誘惑して生きる悪魔として百点満点の仕草なのに、顔面は未だ崩壊している。目はすでにぱんぱんに腫れているし、こすりすぎて真っ赤だ。白目も充血しきって、赤い瞳と相まって化け物じみている。

「なん、なんで、わかれたいの?」
「えっ、大丈夫? 今話聞ける?」
「きく……」

落ち着いてきてからも鼻水をすすったり目をこすったり大忙しのひさしを前に、私は困惑していた。だってひさし私のこと好きじゃないでしょって? 言える? この状態で? とりあえずティッシュを箱ごと差し出すと、ひさしは豪快に数枚抜き取って顔を埋めた。ティッシュの中からは、まだくぐもった泣き声が聞こえる。

「私さぁ、ひさしのこと好きだからさぁ」
「そっ!……なら、なんで! ……俺がにん、うぇっ、人間じゃない、から……?」
「えっ、うーん、まあ、平たく言うとそうなんだけど」
「そん、そんなの、どうしようも、どう、ひどい」

どうにも話がかみ合わない。
もしかして、私は何か、間違っていたのではないか。

「ひさし、私のこと好きなの?」

時間が止まった。
ひさしは、涙の止まった目を見開いて、私を見ている。嗚咽もピタリと止まって、呼吸の音すら聞こえない。
本当に、時間が止まったみたいだった。

「す」
「……す?」
「好ぎだげどぉ???!」

大号泣の更に上があるとは思ってもみなかった。ひさしは駄々をこねる幼児のように、声を張り上げて泣いている。これ隣の部屋にも聞こえてるんじゃないかな。気まずいよな。隣人さん申し訳ない。
えっ、いや、私のこと、好きなの?

「好きなの?」
「好きだよぉ……。だから、ま、毎日言って、おれのこと、なんだと」
「いや、インキュバスだと思ってるんだけど」
「インキュバスだって、別に、人と、変わんないよ! ばーか!」

ばーかばーかと子どもみたいに罵倒しながら抱きしめられて、と言うかすがりつかれて、私は困惑したままひさしの頭を撫でる。確かに会うたび好きだと言われてたけど、リップサービスだと思っていた。
だからずっと、悩んでいたのに。

「インキュバスって、人間に恋するの?」
「そ、そもそもっ、俺の母親は人間だから!」
「つまり、ひさしはインキュバスと人間のハーフってこと?」

ひさしはきょとんと私を見て、あー、と小さく唸る。振られた理由が分かって衝撃が去ったことで落ち着いたらしく、ティッシュで顔を拭いて軽く咳払いをして、上目遣いに私を見た。顔がぱんぱんなのであんまりかわいくない。

「そもそもインキュバスは、人間とインキュバスの間から生まれるの」
「人間の遺伝子はどこ行っちゃうわけ」
「インキュバスは、遺伝子で子どもつくるわけでは……いや俺も詳しくは知らないけど、とにかく、インキュバスは、人間と普通に恋愛して結婚して子ども残すの。寿命も大体一緒だし」

ああー、それでかー。そういうことかー。ひさしがブツブツ言うので首を傾げると、ボロボロの顔のまま小さく笑う。

「振られるとき毎回、『私のこと好きじゃないでしょ』って言われてたの、そういうことだったのかー」
「……もしかして毎回こんな風に泣いてるの?」
「え? いや、確かにそこまで好きじゃなかったかもなーと思ってた」

でも俺、ゆめちゃんは、ほんとに好きだし。そう言って、私の腕にすり寄る仕草は、インキュバスと言うよりどこか小動物じみている。こいつ、多分インキュバスに向いてないんだろうなと私は思って、ため息をつく。
そうか。私は、愛されていたのか。
安心したら涙が出てきて、ひさしがぎょっとした顔で私を見る。

「えっ泣いてる」

それが、泣いているひさしを見た時の私の言葉と全く一緒だったから、私は涙を流したまま、声を上げて笑う。ええ、器用……と呆然とひさしが言うのが可笑しくて、また笑う。

「ねえ、ひさし」
「な、なに」
「好きだよ」

親指で涙を払う私をひさしはじっと見て、腫れた目を細めて笑う。まぶたも鼻も赤いボロボロの顔のまま、愛おしい物を見る目で。

「俺も好きだよ」

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