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憐憫

 ようやっと遺品の整理が終わった日の、黄昏時のことでした。
 チャイムが鳴って玄関を開けると、彼女は夕日を避けるように、木陰にうずくまっておりました。真っ白な長髪に、喪服のような黒いワンピース。年の頃は十二、三でしょうか。知らない娘でした。

「……死神ですか?」

 私が思わずそう聞くと、少女の顔がまっすぐにこちらを見ました。背丈に見合った、幼い顔でした。
 死神だなんて、馬鹿馬鹿しいでしょうか。何しろこの家にはもう、健康なことだけが取り柄のような、私一人しかいないのです。しかし少女のこめかみからは、鍾乳石で出来た古木のような、乳白色の立派な角が生えていて、とても人間とは思えないのでした。

「まあ、似たようなものです」

 彼女は立ち上がると、私の前まで歩み寄ってきて頭を下げました。彼女の体躯は頼りないくらいに小さくて、深く腰を折ると角の先が私の下腹をかすめました。

「まずはこの度のこと、お悔やみ申し上げます。わたくし、遺言の収集を生業にする者です。少々お話を伺いたい」
「……主人の、遺言を収集しに?」
「ええ。はい。もちろん無理にとは申し上げません。遺言は大切な物ですから」

 葬儀屋のようだわ、と私は思いました。お悔やみを申し上げると言いながら、伏せた瞳の裏でお金の計算をしている。そういう人が、私は嫌いではありません。彼の死を嘆き悲しむ裏側で、大した目的もなく下世話な噂話の種を探す馬鹿な人たちよりよほど、信用できると思います。
 だから私は、良いですよとひとつ頷いて、彼女を居間に上げました。主人の話をするのなら、玄関先では不都合があると思ったのです。

「それで、ええと、そういえばお名前を伺っていないわ」
「ああ、失礼。わたくしの事はどうぞ遺言屋とお呼び下さい。人に名乗れる名を持ち合わせていないのです」
「あら、そういうこともあるのね。それで、遺言屋さんは、彼の遺言を探しにいらしたの? 遺書をお持ちすれば良いかしら?」

 遺言屋さんが、探るように私の顔を見ました。少しだけ言い淀んで——私には、これが演技だと言うことがはっきりと分かってしまいました。元々こういうことには敏感なたちなのです——それから小さな声で、奥様への遺言を探しているのです、と言いました。

「なるほど」

 私は呟いて、ぎゅっとスカートを握りました。
 なるほど、奥様への。細く息を吐くと、遺言屋さんが気遣わしげに私を見ました。泣くと思われたのかもしれません。何しろ今日の昼頃やっと、遺品の整理が終わったところなのです。

「奥様に、頼まれたのかしら」
「いいえ、いいえ。ここで得た情報は決して他言いたしません。わたくしの目的はあくまでも遺言の収集ですので」

 少女はそう言って、肩に提げたポシェットから、はがき大の紙を取り出しました。
 上に大きく誓約書と書かれた紙には、日本語で「ここで得た情報は、遺言の収集・展示以外の目的に使用致しません」と書かれていて、ふたつあるサイン欄の片方は、得体の知れない文字で埋まっていました。

「遺言収集にご協力いただけるのであれば、こちらにサインを」

 私は、何かの景品だったボールペンを手に取って、真っ白なサイン欄にペン先をつけました。どこだか知りませんが、彼の遺言を展示してもらうのは、きっと良いことに思えたのです。

「協力するのはもちろん構いません。でもねぇ、遺言屋さん。あの人、奥様には遺書を遺しませんでしたよ」

 拇印を捺しながら、私は言いました。
 私は彼の愛人でした。
 奥様とはもう別居していて、私とふたり、ここで夫婦のように生活しておりました。そんな彼が、どうして奥様に遺言など遺しましょうか。私は複雑な気持ちで遺言屋さんを見ました。
 彼が遺した私的な遺書は私宛でした。その他には遺産の分配を決めた薄っぺらい遺言状が一通きり。二通並べて、寝室のキャビネットに仕舞ってありました。
 遺言屋さんは困ったように首を傾げて、そうですか、と言いました。

「書でなくとも構わないのですが。遺言とは、死ぬ前に誰かに向けて残した言葉ですから。奥様について、何か言っていませんでしたか」
「何か。……そうですねぇ」

 サイン欄には、異国の言葉と並んで、私の名前が並んでいます。もちろん、彼の苗字とは違っていて、そしておそらく、私の両親とも、同じではない苗字でした。
 彼と出逢ったのは私の職場でした。
 孤児だった私は高校までしか通うことが出来ないで、地元の小さな工場で事務員として雇われておりました。
 彼は取引先のお偉いさんで、その時は確か監査か何かのために私の職場を訪れたのです。難しいことは私には分かりませんでしたが、お茶をお出しするのは私の役割でしたから、私はお盆一杯のお茶を抱えて、あちこちと歩き回っていました。こちらでお茶を配ればあちらでお茶がなくなり、私はほとんどお茶を配り通してその日を終えました。
 その終わりに私に声をかけた彼が、どういうつもりだったのか私には分かりません。
 ただ、彼が私に興味を持って、私がそれに応えたことは確かでした。
 特別素敵な人だと思ったわけではありませんでした。ただ身なりがきちんとしていて、お金を持っていそうだったから。少し美味しいものが食べられたら嬉しいという程度の気持ちでした。
 連れられて行ったのは薄暗いバーでした。彼はウイスキーを。私は勧められるまま、長い名前のカクテルを飲みました。

「バーは、食べ物がありませんね」

 私がそう言うと、彼はカシューナッツをつまみながら、目を細めて笑いました。

「何か食べたい? ここは結構、なんでも作ってくれるよ」
「なんでも?」

 それじゃあ親子丼が食べたいと言った私に、彼は今度こそ声を上げて笑って、マスターを呼びました。
 結局親子丼はなくて、代わりに卵とじの天丼を出してもらいました。甘ったるいカクテルと天丼は全然合いませんでしたが、私はなんとなく幸せでした。
 そうやって、何度か逢瀬を重ねるうちに、段々と体を重ねるようになり、もしかしてこれは、不倫というやつじゃないかしら、と私は思いました。彼の左手の薬指に指輪が光っていることには、最初から気付いていたのです。

「……確かに、そうだね。僕には奥さんがいるから」

 彼は奥様のことを、奥さんと呼びました。どう呼ぶのが正解かは知りませんでしたが、他人行儀だと私は思いました。

「奥さんと、息子がいるよ。最近反抗期で困る」

 ベッドの上でこんな話をするなんてどうかしていると私は思いましたが、どんなことであれ彼のことを知るのは嬉しかったので、黙ってその話を聞いていました。この頃には、すっかり彼のことが好きになっていたのです。
 素っ裸のまま、世間話のような顔で彼は家族の話をしました。彼の家族に詳しくなって、それでも私にはどうしても、分からないことがありました。

「ねえ、家族って、どんなものなのかしら」

 やはり素っ裸のままそう言った私に、彼は困った顔で笑いました。その頃には見慣れた顔でした。返事に困ったとき、彼は必ずそんな顔をするのです。

「そうだなぁ、家族によって色々だと思うけど」
「だって『普通の家族』なら、浮気なんてしないもんじゃないの?」
「そうだねぇ、人によって色々だと思うけど」

 私は家族を経験したことがありません。物心つく前にひとりになって、私に流れる血の他には、苗字ですらも遺していってはくれませんでした。
 けれど、優しく聡明な奥さんに、出来の良い息子。大企業の役職者。彼の口から語られるのは『幸せな家庭』そのものに思えたのです。

「ねえあなた。幸せなら手放してはいけないわ。不倫ってとってもいけないことなのよ」
「君がそれを言うのかい?」
「ええ。だって私、奥様からあなたをとろうというんじゃないんだもの。あなたといると幸せだから、誘われるままに着いてきてるだけよ」

 無責任にそう言った私に、彼はやっぱり困った顔で笑って、そうだねぇと言いました。
 それで、それから半年ほどで、あれよあれよという間に、私は彼と同居する運びになっていました。彼といると、相変わらず私は幸せだったので、断る理由なんてありませんでした。
 奥様はどうなさるの、と聞いた私に、あれは同意の上だよ、と彼は言いました。彼はいつでも奥様のことを奥さんと呼んだので、「あれ」というのが奥様を指すのだと、すぐには気付きませんでした。

「ふたりで暮らして幾年経って、彼が退職してから二年ほどして、大きな病気が見つかりました。その頃にはもう手遅れで、すぐに口もきけなくなったので、奥様への遺言は預かっておりません」
「そうだったのですか。……息子さんは、いかがでしょうか」
「息子さんにも、何も」

 改めて口にすると、彼が不義理な人間のような気がしてきて、私は慌てて付け足しました。

「病気の分かった頃に、手紙のやりとりくらいならしていたかも知れませんけれど」
「ああ、なるほど。確かにそうですね」

 遺言屋さんはそう言って、静かに頭を下げました。

「お付き合いいただいたにもかかわらず申し訳ない。ここには私の探す物はないようです。ここらで、お暇させていただきたく」

 すがすがしいくらいきっぱりとそう言うと、立ち上がって玄関に向かいました。その小さな背中を見て、そういえばこの人は少女の姿をしていたのだわ、と私は思い出しました。それくらい、立ち居振る舞いが大人びていたのです。

「あの!」

 尋ねて良い物か悩んで、ようやく遺言屋さんを引き留めたときには、彼女はすでに玄関の薄暗がりの中にいました。橙色の灯りが、彼女の顔を照らしています。

「あの、私宛の遺言ならあります。ずうっと一緒に暮らしていて、家族のようなものでした」
「ええ」

 彼と暮らして、楽しいことも、悲しいこともありました。これが家族というものなのかしらと私は思いましたが、結局今も正解は分かりません。

「私では、駄目なのですか」
「……ええ、そうですね」
「家族ではないから?」

 彼は私を家族と言いませんでしたし、私は家族を知りませんでした。もしも結婚したのなら、それは間違いなく家族と言えたのでしょうけど、そういう間違いのないつながりは、私たちにはありませんでした。
 私たちは、家族だったのでしょうか。

「違います」

 きっぱりと、遺言屋さんは言いました。

「家族というものは、私にはよく分かりません。ただ、あなた宛の遺言は管轄が違うのです」

 遺言屋さんはポシェットから名札を取り出して私に見せました。名前の代わりに大きく『遺言屋』と書かれていて、その左上には肩書きらしき物がありました。

「あいにく名刺は持っていないので、名札で失礼致します。わたくしは愛する者へ向けた遺言を収集する係なのです」

 あなた宛の遺言は、管轄が違います。遺言屋さんはそう言って、名札をポーチにしまい直しました。私は立ち尽くしたまま、ただ、彼女を見ていました。乳白色の角が橙に照らされて美しく、やはり人間のようには見えませんでした。

「ご希望なら、管轄の同僚にコンタクトを取ってみますが、いかがなさいますか?」
「……いえ」

 私はスカートを握りしめて頭を下げました。

「いえ、結構です。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。もう寒いので、お体にお気を付けて」

 遺言屋さんはそう言ってドアを開きました。外はもうすっかり暗く、夜風が入り込んで足下を冷やします。
 ゆっくりとドアが閉まるのを見送ってから、私は冷え切った足で寝室に向かいました。キャビネットを開くと、彼が遺した遺書があります。
 幸せになれ、深雪。
 遺書には一言、そう書いてあるだけでした。
 拇印を捺すときに着いた朱色が、遺書の端を朱く汚して、私は彼が死んでから初めて、大声で泣きました。

「ねえ、家族って、どんなものなのかしら」

 私は家族というものを知りません。彼が死んでしまった今、この答えは永遠に分からないままなのです。

カテゴリー: 小説